高山弥一の随筆


“私の若い頃”  (孫注1)

高山弥一  (孫注2)

 想い出を書けとの事だが、私は終始ビジネスオンリーで通ってきたので別にこれぞと云うロマンスの持ち合わせもないが、これでも昔から禿頭でもなかった。しかし今の若い者の様に人前で平気でべたべたしたりはしなかった。恋人にラブレターを送るにしても古歌とか古詩とかを書いてやったものだ。  例えばー
二八誰家女嬋娟真可憐
君無王上点吾為出頭天
 又其の返事に、彼女は
扶桑第一梅今夜為君開
欲識花真意三更踏月来   (孫注3)
 こんなことを書いてやったりとったりしたものだ。

  喜多方駅が開設してから今年で50年で、先日盛大に記念祭をやったが当時を想い起こせば誠に感慨深いものがある。そして喜多方駅が出来、引続き新線工事に取り掛った。請負者は星野組星野鏡三郎氏(今の鉄道工業会社の前身)喜多方ー山都間第1工区、山都ー野沢間が第2工区、私は其の配下の山口平一氏の現場員として明治40年6月乗り込んで来た。  (孫注4)
 其の時代の鉄道設計は英国式で何マイル何チェーン何リンクと云ったものだが、其の工事にたずさわる親方連中は指に金の指輪を嵌め、金時計金鎖で鼻にはカイゼル風に髭をピンと伸ばしていかめしい姿をして居っても、技術は実に幼稚なものでプランやセクションなど見せてもさっぱり解らない。最少限度15チェーンカーブと云っても其の割出方法は勿論A・B・C・Dなど解る人は一人もいなかった。鉄道技手が来てセンターを出したり丁張りを掛けたりして呉れたものだ。土方の親方は借り手なく県庁の技手様でも其の通りだ。
 確か大正3年頃だと思う。田付川の浚渫工事を請け負った際、喜多方在住の県の技手の方の設計であるが、どうしても坪数が合わないので私がその方に会って土坪計算はどうして出しましたかと聞いたところ其の頃はやり出したプラニメーターを廻して係数を掛けて出したという。ところが先生断面を縦五十分横百分に書いていてプラニメーターを五十分にひん廻して係数を掛けたのだ。それでは坪数が出ないでないかと云ったところ先生漸く気がついて平謝りに謝罪った。
 しかし私は役人様に迷惑を掛けてはならないと思って其の儘仕上げてひどい損をした事もあった。
 今思い出したが、私の配下で水戸藩士の落ちぶれで猿田仙助と云う奴が居った。野沢尾登隋道の工事をやらせておったが大の酒好きで自分は一杯も買わないで人の酒ばかり飲んで居る奴であった。或る時、尾登の斎藤四郎氏と私と三人で飲み合わせた。猿田大いに呑むものだから、斎藤氏曰く。君は蛇上戸だというと仙助ナニ、蛇上戸とは一たい何のこった。と。斎藤氏又曰くそう呑むと蛇上戸だと人が云う。なぜかと云えば買わず(蛙)呑むからと云った。処が仙助氏暫く、小首をかしげて居ったが端然として曰く。蛇上戸だと云えば云い。なぜかと云えばお足(銭)無いからと駄句った。昔の親方は中々隅に置けない処もあった。
 そのほか色々な事もあったが年が70にもなれば、みな忘れて仕舞ったので、この辺で。


(孫注1)
この随筆は高山建設の創設者である高山弥一が、社団法人福島県建設業協会の会報誌「福建会報」の昭和30年11月号のために書いたもののようだ。弥一の孫である私たち高山敬子・美穂は、同じ随筆が昭和53年の同会報誌の<本会創立30周年記念シリーズ>の特集“故人の健筆・随筆から”に掲載されているのを見つけ、同協会の許可をいただきHP上で紹介することにした。尚、孫的校閲により一部表現を変更させていただいている。また、必要な箇所に孫による脚注を(孫注)として付けさせていただいた。
(孫注2)
1886(明治19年)〜1966(昭和41年)
(孫注3)
この五言絶句には当時の編集者の方が解説を加えてくださっている。
『尚、蛇足乍ら文中の五言絶句を解説するとー
二八誰家女二八誰が家の女ぞ
嬋娟真可憐せんけんまことに可憐なり
君無王上点君に王上点なくんば
吾為出頭天吾出頭天とならん
扶桑第一梅扶桑第一梅
今夜為君開今夜君のために開かん
欲識花真意花の真意を知らんと欲せば
三更踏月来三更月踏んで来れ
 ●王上点なくんば
   (王の字の上に点がない主人がなければという意)
 ●出頭天とならん
   (天の字の頭が上に出た字形の故、夫の隠語)』

ところで、この漢詩は祖父のつくったものではない。ネットで調べたところによると、送ったのは雷首という江戸後期の儒者亀井昭陽の弟子。その人が「贈小琴女史(しょうきんじょしにおくる)」と題した漢詩のようだ。それに答えているのは、昭陽の娘、亀井小琴らしい。
(孫注4)
祖父は新潟県新発田市出身。この時に会津にやってきた。